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中華料理専門のファミリーレストラン『曹魏』は、今日も繁盛していたようだ。
エリアマネージャーを務める司馬懿は、今週の業務報告書を受け取るために、ディナータイムの混雑が過ぎた頃、本店を訪れた。書類など、わざわざ自分が赴かずともメールや宅配便で送れば済むことなのだが―――現場を嫌って本社に引き籠りがちだった司馬懿は、何故か最近、本店には顔を出すようになっていた。社長・曹操も、「このところ真面目にやっとるようだの」などと揶揄する。
―――不真面目にしているつもりなど、毛頭ないのだが。
現場主義の曹操は、「どの役職に就く人間も、現場のことを知らねばならぬ」と、企画希望だろうが管理希望だろうがまずは店舗へ放り込む。司馬懿も、入社して1年は接客・調理を一通り経験した。
そこで学んだことは、確かに現場の経験は重要ではあるが、自分にとってピークタイムの喧騒は、煩わしいものであっても、やりがいなどという美徳には決して繋がりはせぬ、ということだけだった。
「今日も、まずまずの客入りだったようですな」
冷蔵室で在庫の確認をする夏侯淵の傍らで、司馬懿は満足気に言った。
「ああ、寒さも本格的になってきたからな。麺モノの出がどんどん上がってるぜ」
と、夏侯淵。制服の上に防寒着を羽織り、ソースや餃子の数を数えては在庫管理表に書き込む。
厨房では、調理スタッフのアルバイトが食器を洗っていた。ピークが過ぎて、主だったメンバーは既に上がったようだった。
―――少し、遅かったか。
店内を見渡して、司馬懿は胸中で呟いた。
「ついさっき上がったとこだから、まだ事務所にいるんじゃね?」
夏侯淵が不意をついた。
「は…誰が、ですか」
「だから、張コウ。探してんだろ?」
「…何故そうなるのでしょう」
鋭い。内心舌打ちしながらも、司馬懿はとぼけた。声に出したわけでもないのに、何故わかったというのだろう。
「や、最近、仲良いみたいだからさ。今日もどっか呑みに行くのかと思ったんだけど…違ったか?」
ははは、と笑う夏侯淵に、多分他意はない。今度は俺も連れてけよ、と朗らかに肩を叩かれて、司馬懿はひきつった愛想笑いを浮かべた。
彼に他意はない―――いや、自分だってそうだ。他意はない。そのはずだ。
あれほど苦手だった店舗にマメに顔を出すようになったのも、ただ現場を知ることの必要を感じたからだ。誓って、一個人の顔を見るための口実などでは、ない。
司馬懿はスーツの内ポケットに入れてあった煙草を取り出し、裏口を指差した。
「少し、外にいます」
「おー、悪ィな、これ終わったら報告書やるから」
ちっと待っててくれや、と言う夏侯淵を背に、司馬懿はそそくさと表に出る。のぼせて思考の絡まった頭を冷やさなければ、そう思った。
頼りなく揺れる火を冷たい風から守るようにして、煙草の先端に近付ける。火が燃え移ると、ほろ苦い煙が口腔に流れ込む。2、3回ほどふかした後、司馬懿は煙を深く吸い込んだ。
壁にもたれかかり、夜空を見上げる。星々の輝きは鋭さを増し、風が吹く度に揺れる灯火のように瞬いていた。
煙草が半分ほどの長さになった頃、司馬懿は脇を見遣った。事務所の窓からは煌々と光が漏れ、そこに人がいることを示している。ガラスは寒気で凍りつき、中の様子を伺うことはできなかったが―――夏侯淵の言葉から察するに、そこに彼がいることはほぼ間違いなかった。
次の1本に火を点けて、司馬懿はまた躊躇った。
もしかしたら、もうとっくに帰ったかもしれぬ。中にいるのは、誰か他の人間ということもある。第一、そんなことを気にして何になるというのだ。
くだらない葛藤がざわめく間に、煙草は絶えず燃え続ける。いつの間にか、もうフィルターの近くに火が来ていた。
そろそろ夏侯淵が在庫を数え終わっているだろう。これ以上深入りをせずに、今夜はただ仕事を済ませて帰ればいい。
短くなった煙草を灰皿に押し付けて、司馬懿は最後の煙を吐いた。
―――そうだ、気にするな。
その場を後にしようと足を踏み出した時、窓の中で人影が動くのを視界の端で捉えた。
途端に、抑えたはずの感情が、堰を切って溢れ出そうになる。
やめろ、馬鹿。理性はそう詰るのに、身体が言うことを聞かない。少しだけ。少しだけ覗くだけだ―――訳もなく弁解めいた言葉が頭の片隅でチラチラと踊る。
―――しゃり。
窓を覆う霜が、左手に触れた。―――否、司馬懿の左手が窓に触れたのだ。
細かく結晶した氷の粒は、侵食されるままに氷解してゆく。2、3度往復させると、蛍光灯に照らされた長い髪が視界に飛び込んできた。
「…張コウ」
無意識に、司馬懿はその名を口にした。
張コウは、凍った窓の向こうで呼ばれたことも知らずに、真っ赤な携帯を睨んでいた。既に帰り仕度は済ませ、白い毛皮に縁取られたコートを着ている。そういえば、先日会った時に新しいコートを買ったと嬉しそうに話していた。携帯を握る指先には、赤い花の絵が見えるが、おそらく付け爪だろう。キーを押す度に、埋め込まれた石がキラリと光る。
誰かにメールを打っているらしく、張コウは、少し打っては考え、考えてはまたキーをいじる。それを繰り返していた。僅かに力んで尖らせた唇には、うっすらと照りが出ている。―――グロス、と言っただろうか。男の癖に、と笑ってやったことがあるが、そのなまめかしい輝きに心が揺れるのは、司馬懿だけの秘密だった。
張コウは携帯を閉じて、困ったように眉間に皺を寄せた。どうやら文面が思いつかぬらしい。拗ねた表情で机に伏せる様を見て、司馬懿は口許を緩めた。―――と。
おもむろに窓を見上げた張コウと、突然目が合う。あまりにも突然過ぎて、司馬懿は目をそらすことさえできなかった。同様にびっくりして目を見開いた張コウの顔が、みるみる綻んでいく。ぱくぱく動く唇は、「しばいどの」と言っていた。続けて何事かをまくしたてるが、司馬懿には聞こえない。身振りでそう示すと、張コウは携帯を指してまた何かを言おうとする。
い、ま―――
め……る、を―――
張コウは、ゆっくり唇を動かして司馬懿を指差した。
「今、メールしようと思ってたんです」
そう読み取った瞬間、司馬懿は崩れるように窓へもたれかかった。解けた霜がスーツに染み込んで、身体が冷えていく。反対に何故か熱くなる耳に手を当てて、はは、と力なく笑う。
コツン、と音がして、見ると張コウが窓際に顔を寄せていた。「どうかしましたか」と、心配そうな顔が訴えている。
ガラス1枚を隔てているとは言え、目前に迫った長い睫と唇に、心臓がぎゅうと締め付けられる。 馬鹿な、と責める理性も今では隅に追い遣られて、ただ、負けた―――そう思った。
その心を知る由もない張コウは、相変わらず不安気な顔で窓に額を寄せる。
「今夜」と言おうとして、司馬懿は自分の携帯を取り出した。何かを入力する司馬懿の指を、張コウはただ黙って見つめる。すぐに、張コウの携帯が音を鳴らしてメールの受信を告げた。
慌ててメールを確認した張コウは、すぐさま司馬懿を振り返ってこくこくと首を振る。またメールを打とうとして、司馬懿は凍った窓を見た。思い直して、指先で氷を削る。
「すこしまってろ」
張コウは「了解」とばかりに人差し指と親指で輪を作った。その笑顔が照れくさくて、背を向ける。夏侯淵が呼ぶ声が聞こえた。もう一度張コウを振り返ると、鏡を取り出して身繕いを始めていた。
夜空を見上げる。
自分がこれからどうなるのか、自分にもわからない。ただ、少し風が目に染みた。目の縁が湿っているのは、寒さのせいだけではなさそうだ。
fin.
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