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晴れた日の午後、いつものように司馬懿宅を勝手に訪れた張コウは、いつものように茶を淹れていた。小さな茶器に湯を注ぎながらふと窓の外を見遣れば、庭の木々が競うように若い葉を繁らせている。花が野を彩る季節も盛りを過ぎ、鮮やかな緑が誇る夏へと、時は移ろうとしていた。
若葉の眩しさに目を細め、張コウはまた手元に視線を戻した。決して暗いわけではないが、生気が弾けるような外に比べ、室内はひっそりと涼しさを保っている。薫風が張コウの髪を撫で、部屋の奥へと渡っていった。それを見送るように顔を向けると、屋敷の主人である司馬懿が黙々と書をしたためている。
お茶が入りましたよ、と声を掛けて、張コウは司馬懿の側へ行く。司馬懿はただ、ん、と生返事をする。それもいつものことだった。
それを気に病むほど若くもないが、時折、この人は自分のことを本当に空気か何かだと思っているのではないだろうか、という気になることもある。もちろん、司馬懿を訪れるのも、茶を淹れるのも、自分が勝手にしていることではあるのだが。
「司馬懿どの、ちょっとお伺いしたいことがあるんですけど」
「忙しい、後にせよ」
張コウが声を掛けても、司馬懿はそちらを見もせずにぴしゃりと言う。これもいつものことだ。そしていつもなら、そうですかと張コウが身を引くのだが、今日は違った。司馬懿の手から筆と竹簡を奪い、その視界に無理矢理収まると、張コウは司馬懿の目を見据えて柳眉を吊り上げた。
「大事なお話なんです!」
普段は穏やかな張コウが、手荒な行動に出たのを見て、司馬懿はやや驚いたようであった。目を見開き片眉を引きつらせ、口を開けたまま暫し固まっていた。
「……なんだ」
溜息と共に漏らした言葉には、苛立ちと諦めが僅かに混じっている。司馬懿は張コウの方へと居直って、額に掛かった黒髪を掻き上げた。
だが、当の張コウはと言えば、なにやらもじもじと筆と竹簡を弄くったまま話を進めようとしない。あのぅ、だの、そのぅ、だの全く意味のない言葉をしどろもどろと紡ぐだけである。
「話をせぬならそれを返せ」
この忙しい時に、と司馬懿は右手を伸ばし、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。それに慌てた張コウは、
「ちょっ、ちょっと待って下さいよ~、心の準備が……」
と、胸に手を当てて目を瞑った。そのまま深く息を吸い、呼吸を止める。やがて意を決したように唇をキリと一瞬結ぶと、艶やかな口許から息を吐き出した。
「司馬懿どのは、私のどこがお好きですか?」
至極真面目な顔をした麗人の口から出たその言葉は、さして目新しいものでもなかった。
「それが大事なことか?」
「はい」
「答えねばならんのか」
「今すぐ、です!」
張コウはその手の質問をしょっちゅうしてくる。その度に司馬懿は適当にはぐらかしてきたような記憶があるが、さりとてそれで不平を言われたこともない。さて、今日はどう応えたものかと逡巡していると、眼前に正座している恋人は、思い詰めたような表情でじっとこちらを見ている。
――――――どこが、と問われても困るのだが。
その必死な瞳に見据えられ、今回ばかりはちと真面目に応えねばならぬと思い直した司馬懿は言葉を探したが、これというものがなかなか見つからない。勝手に人の家に上がりこむとか、こちらの都合も考えずに我侭を言うとか、不満ならばいくらでも具体的に浮かんでくるのに、である。終いには、はて、自分はこの男の何が好きで女のように側に置いているのだろうと、司馬懿自身が考え込む始末であった。
「司馬懿どの」
いつまでも答えを出さぬ司馬懿に痺れを切らし、張コウはずいと躙り寄った。その整った顔がまた不安げに眉を寄せる。それもまた美しい、と思った司馬懿は、はたと膝を打った。
「顔が良い」
「…………」
「答えをせがんでおいてその反応はなんだ」
あからさまに落胆した様子の張コウを、今度は司馬懿が咎めた。張コウは双眸に涙を浮かべて、
「だって……それじゃまるで私の身体が目的みたいじゃないですか…!」
芝居がかった仕草で着物の端を噛み、涙ながらに訴えるその姿は、まさしく女と変わらない。だが司馬懿はそれに狼狽えることもなく、淡々と告げた。
「そんなことはない」
「本当ですか?」
「身体が目的なら、そも男を相手にしようとは思わん」
「…………」
もはや諦めた、という様子で項垂れる張コウに、司馬懿は眉を顰めた。
せっかく答えをやったというのに、一体なんのつもりだ、と。
「私の答えは以上だ。もういいか」
「ああっ、もうひとつだけ……!」
筆を寄越せと差し出した司馬懿の左手を、張コウは慌てて握りしめた。
「次は何だ」
半眼で呻く司馬懿にはお構いなしで、張コウはその手を自分の胸に寄せた。数秒の間、両手で指をさすり、愛しそうに眼差しを落とす。そして目を伏せたまま、遠慮がちに口を開いた。
「司馬懿どのは、私が司馬懿どののどんなところが好きか、とか…気になりませんか?」
「ならんな」
「…………ひどい」
間髪入れぬ即答に、張コウは打ち拉がれてその場に崩れ落ちた。手を握られたままの司馬懿が道連れになって倒れ込む。
「なんなのだ、一体」
嫌味でも皮肉でもなく、本当に訳が分からぬという表情の司馬懿に、張コウの心は更に傷ついた。これが確信犯ならばいくらでも耐えようものを。
「いつもいつも、名前を呼ぶのは私だけ。司馬懿どの、おまえ、司馬懿どの、貴様……想って欲しいと焦がれるのも私だけ……ああ、せつない……」
床に伏せたまま、呪いの言葉を吐くかのように、せつない、せつないと張コウは呻き続けた。
「馬鹿か、お前は」
「ほら、また」
「…………」
「たまには名前を呼んで下さったっていいじゃありませんか」
「たまには呼んでるだろう」
「今、呼んで下さい!」
「断る」
「司馬懿どのぉ……」
グス、といよいよ鼻水をすすり始めた張コウには、既に美丈夫の面影はない。無様に床に突っ伏して、長い髪は乱れたまま、涙を堪える目許と鼻筋は赤らんで、悔しさに唇を噛みしめている。その様に司馬懿は思わず解顔した。
「嘘だ」
「!」
一転して柔らかい声音に、張コウは眼をぱちくりとさせる。きょとんとしたその顔を見て、司馬懿は更に吹き出す。張コウに握られた手を、今度は司馬懿が握り返してそれを引いた。
「張コウ、こっちへ来い」
「……は、はい」
誘われるがままに、仰向けになった司馬懿の横に身体を寄せる。蒸し暑い外気に反してひんやりとした床板が心地好い。司馬懿は黙って張コウの肩を抱いた。その手に力を込めれば、張コウも黙って司馬懿の胸に頭を置く。とくん、とくんと心の臓が脈打っている音が聞こえた。
「……よい、香りだ……な」
唐突に、しかし躊躇いがちに言われたその言葉を、張コウは一瞬理解することができなかった。だが司馬懿の左手が自分の髪を弄っているのを見て、やっとそれに焚きしめられた香のことを言っているのだと気付いた。
「司馬懿どの」
「こっちを見るな、馬鹿めが」
そう言ってそっぽを向いた司馬懿の耳朶が、いつもより朱く染まっている。すみません、と言って目をそらした張コウも、自分の顔が熱くなるのを感じた。
「あのな」
暫しの無言の後、司馬懿は身体の向きを変えて張コウを懐に抱き竦め、話し始めた。低い声が耳元で心地好く響く。ゆっくりと喋る司馬懿が、言葉を慎重に選んでいるのが、張コウにもわかった。
「いつもいつも、お前が言葉にしてくれるから、
私はお前の気持ちを疑うことも、それを憂えることもない」
「あ……」
「それと、私はお前のように神経が図太くないから……」
「どういう意味です?」
「いやその」
口を尖らせる張コウに、司馬懿はすまん、と小さく謝る。そして直ぐに額を寄せ合って二人して笑った。
張コウがそっと触れた手を、司馬懿は力を込めて握り返した。再び頭を抱き寄せ、目尻に柔らかく口付ける。
「もう、止まりましたよ」
「そうか」
そう言いながらも、スン、と鼻を鳴らす張コウの眼は、まだ潤んでいる。司馬懿は空いた方の手で、張コウの頬を撫でた。
「思ったことをそのまま口にするのは慣れておらぬ。だから、今はこれで許せ」
顎を引き寄せられ、張コウは眼を閉じる。
窓から、初夏の風が一陣、舞い込んでくるのを感じた。
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