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まったく、忌々しい。
司馬懿は常にも増して、険しい表情でそれを見下ろしていた。
筒状の陶器に、素っ気なく活けられた一株の花。釣鐘のような形をした小さく白い花がいくつかぶら下がっている。司馬懿の私室の片隅で申し訳なさそうに俯いているそれは、どこにでも生えているような、いわば野草であった。これといった飾りもない花瓶にはまさに「お似合い」という風情である。
だが、そんな取るに足らない草花に、朝早くから司馬懿の心は乱されていた。
そもそも、この名も知らぬ花を携えて徹夜明け司馬懿を叩き起こしたのは張コウである。
司馬懿は朝が苦手であったが、人前に出る時はそれを気取らせぬよう神経を遣っていた。魏の未来、ひいては己の未来を左右するような重要な場に出る場合は特に。早朝と言ってもいい時間まで、献上するための策を推敲し、残った僅かな時間を少しでも睡眠に充てようと、体を横にしたばかりであった。そこに張コウが訪れたのである。
間の悪いところに、と多少の苛立ちを覚えはしたが、心を許した人の突然の来訪に、司馬懿はできるだけ愛想よく振る舞おうとした。頭骨を締め付けるような痛みと戦いながら、恋人の言葉に耳を傾けた。
「いい香りでしょう」
張コウはいきなり白い花束をの鼻先に突きつけて言った。
疲労し、鈍った五感ではほとんどわからないくせに、彼が言うのだから間違いないと、朦朧とした頭で司馬懿は頷いた。
「可愛らしい花を頂きましたので、司馬懿どのにもお見せしたくて、朝早くから参ったのですよ」
迷惑は承知の上で、どうしても早く逢いたかったという張コウに思わず目を細めた司馬懿だったが、その言葉に一欠片の不快感を感じて訊き返した。
「もらった、だと?」
「…ええ」
僅かに見せた柔らかい表情がすぐに硬くなるのを見て、張コウは怪訝そうに答えた。
「誰にだ。女か?」
「いいえ……違います」
更に問いを重ねた司馬懿に、張コウはまた不安そうな顔をしてみせた。
彼がこれまで張コウの身辺にとやかく口出ししたことはない。司馬懿は妻がいる身だし、張コウとて成人男子、浮いた話の一つや二つは珍しいことではない。ただ、女との契りと、互いに求め合う感情を同列に並べてはいないだけである。
「淵どのに頂きました。ユキノシタ、というそうです」
「…両目の方か」
花の名前など聞かなかったふりをして、司馬懿はわざと、そういう言い方をした。
「…ええ」
明らかに棘のあるその言いように、張コウは後悔した。司馬懿が何かと曹操にべったりな夏候両将軍を快く思っていないことは、薄々感じていた。顔には出さぬよう努めているが、彼は生来激しやすい性格の持ち主である。親しく付き合うようになって、表情の僅かな変化で司馬懿が何を考えているか、特に何が嫌いか、はすぐにわかるようになった。
例え曹操とは無関係な話題でも、夏侯淵の名前を出すべきではなかったかもしれない。己の軽率な発言での気を害してしまったことを省みて、張コウは項垂れた。
だが、司馬懿の懸念は違う点にあった。
張コウ自身は気付いていないようだったが、夏侯淵は鍛錬や狩り、そして酒宴と、何かにつけて張コウを誘い、自分から遠ざけているように感じるのだ。もちろんそれは穿った見方だということも自覚してはいるが、そのせいで二人きりで逢える時間が減っていることも、また事実であった。
少なくとも、あの「いい人」が具現化したような両目の夏候将軍は、張コウに好意を抱いている。それがどのようなものかは知らないが、司馬懿にとっては不愉快極まりない存在だった。張コウの方でもひとかたならぬ信用をおいているというのも気にくわない。
司馬懿は手渡された花束に再び目を遣った。花束、と言うにはあまりにもみすぼらしい雑草である。大きな葉に不釣合いなほどこぢんまりとした、粒のような花。いかにもあの髭達磨が選びそうな花だ、と苦笑する。
「要らん。棄てて来い」
無造作に花束を投げ棄てて、司馬懿は張コウから視線を逸らした。顔をそむけた勢いで、艶やかな黒髪がその横顔を覆った。僅かに垣間見える口の端は、不機嫌そうに歪んでいる。
「申し訳…ございませんでした」
こうなってしまうと、もはや取り付く島もないことを張コウはよく知っていた。ひたすら詫び、そして独りで悔いながら司馬懿の機嫌が直るのを待つしかない。
深く膝を折り拱手して、張コウは散らばった花を拾い集めた。
「当て付けの、つもりか」
とぼとぼと帰っていく張コウの背中に、司馬懿は呟いた。その声音が、自分でも意外なほど刺々しく響いた。そしてにわかに己を嫌悪する。なぜもっと優しい言葉をかけてやれないのか、そう思いながらも、恋人の無神経さに腹が立ってならない。
司馬懿は張コウに花を贈ったことがなかった。たった一輪でも、なんの言葉を添えずとも、彼が嬉しそうに微笑むのは容易に想像できるというのに、いつも自尊心がしゃしゃり出てきて行動に移すことができずにいるのだ。
そんな気障ったらしいことができるか。
「夏候将軍が、羨ましいものだな」
皮肉を込めて言ったつもりが、期せずして本音であった事に気づく。
深い溜息とともに視線を落とすと、先刻投げ棄てた花が一株だけそこに残っていた。重い体を支えながらそれを拾い上げ、指先でくるくると弄ぶ。露を含んだ白い花が、朝陽を受けて玉のようにきらきらと光った。何度も転がしては、その様を見つめる。具体的な言葉は何も浮かんでこなかったが、ただ張コウの寂しげな背中と可憐な笑顔が交互に思い出されるのだった。
数日後。
司馬懿は久方ぶりにゆっくりと時間を過ごしていた。明日からはまた忙しい日々が繰り返されるが、朝が来るまでは思い煩うのは止そうと決めていた。「司馬懿どの」
聞き慣れた声が、窓の外から囁きかけてきた。
「起きていらっしゃいますか?」
「…張コウ…」
驚いてそちらを見遣ると、短い掛け声が聞こえて張コウが窓枠から飛び込んできた。大きな体躯に似合わぬ身軽さで、軽やかに着地する。月明かりを浴びたその姿は、まさに「舞い降りてきた」という表現が相応しい、と司馬懿は思った。
「お邪魔いたしますよ」
とっくに部屋に侵入したあとで、にっこりと微笑む張コウに、司馬懿はほっとするようなどきどきするような複雑な気持ちを抑えて、
「泥棒のような真似をするなと言っとるだろうが」
と、いつものように呆れた素振りを見せた。
「申し訳ございません。皆さんのお仕事を増やしてしまうのも気が引けるものですから」
同じくいつもの調子で返す張コウには、先日の翳りは些かも感じられない。もう立ち直ったのかと安堵しながらも、それに対して未だにやきもきしている自分が情けなく感じられた。
なんとも言えない居たたまれなさにまた視線を外すと、張コウがその手に酒瓶と梔子の花束を抱えているのが目に入った。件の花を同じ白の花弁だが、これはもっと大きく、星が幾重にも重なったような形をしている。まるで今宵の満月に負けじと咲き誇っているようだ。
「今日は、頂きものではありませんよ」
司馬懿の視線に気がついたのか、張コウは尋ねられる前に自ら申告した。
「それは、何よりだ」
なにが「何より」だ、と胸中で舌打ちするが、意地っ張りなこの性格は当分直りそうにない。
「貴方と、お花見をしに参りました」
「…ついでに月見もできるな」
司馬懿はあくまで平静を装って、窓の外に輝く月を見上げた。
「そうですね」
ふふ、と笑って司馬懿の横に腰を下ろすと、張コウは部屋を見渡した。花を挿す容器がないかと思ったのだが、代わりに思いもよらなかったものを見つけた。
「司馬懿どの、これ……」
張コウの視線の先には、幾分か萎れた白い花が月光を受けてうっすらと光っている。
「ああ」
「申し訳ございません、全部拾って帰ったつもりだったのですが」
「気にするな」
「でも」
「お前が私に寄越したものを、無下に棄てることもあるまい」
『お前が』『私に』という語句を殊更強調して、司馬懿は張コウの結い髪を弄んだ。
「司馬懿どの」
「なんだ」
「あの、私……」
朝露を含んだように潤んだ瞳が、司馬懿を見つめる。張コウの髪を放し、その細い顎を取って司馬懿は囁いた。
「何も言わなくていい」
深く、しかし穏やかな口づけの後で、また囁く。
「お前は私のものだ」
「もちろんですとも」
張コウが身を委ねるように司馬懿の懐へ顔を埋めれば、司馬懿は張コウを強く掻き抱く。
床には重なり合った影が落ちていた。
【あとがき】
原稿の合間、気分転換にポチポチ打ってました。
ネットが繋がらないと、もくもくとトランプゲームをやるか文章を書くかしかないのですよね。
ゲームなんぞやってる場合でもなく、原稿が進まないのに司馬蝶萌えは溢れてくるしで、こんなん生まれちゃいましたー。
春なのでお花見…と思って書いたのですが、最終的に選んだ花は夏の花です。orz
書いている最中は「花」とか「白い花」としか書かずに、最終的にいろいろ調べてイメージに合うものを当てはめました。
三国時代の中国にあったかどうかまでは交渉に入っておりませんのであしからずご了承ください。
お暇な方は花言葉なぞを調べていただくと、更に楽しめる…かもしれません。
あ、あとこれだけは。
淵ちゃん大好きです。
どちらかと言えば司馬視点で書いたために、あんな表現になってしまいました。
淵ちゃんファンの方、どうかお気を悪くなさらないで下さい。
よーし、原稿描くぞぉー。
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