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■言霊

「まさに電光石火でしたね」
 会うなり張コウはそう言った。
 上庸で蜀に寝返りを図った孟達を、司馬懿がわずか8日の速さで斬って捨てたのは、先々月のことである。蜀と魏の間で揺れる孟達を書簡での交渉をすると見せかけておいて、距離にして千二百里(150km前後)、通常ならばひと月はかかる行軍を、司馬懿は周到に用意させた替え馬を乗り継いで駆けつけたのだった。
「日和見の輩を手玉に取るは、赤子の手をひねるよりもたやすい」
 フン、と鼻を鳴らして司馬懿は答える。
「書面にて懐柔するそぶりをお見せになるとは……さすが司馬懿どの」
「それは皮肉か、張コウ」
「いえいえ、司馬懿どのの冴え渡る諜略と先見の明を、賛美申し上げているのですよ」
 司馬懿の鋭い眼光にも怯まず、張コウは微笑んだ。司馬懿はわずかに嘆息し、ぽつりと呟いた。
「なぜ人間は、言葉の裏などというものを読むのだ?」
 思いがけない言葉に、張コウは目を見開く。
「これは……先帝の謀臣として名高い司馬懿どののお言葉とは思えませんね」
「謀臣が名高くては謀臣とは言わぬ。過剰な物言いはやめよ。今は」
「……わかりました」
 司馬懿は生来、率直な表現を好むところがある。華美に飾り立てる装飾や言葉遊びのようなものも、つきあい程度にしか嗜まない。それでも普段は、張コウの大げさな言い回しや態度を制することは少なかった。むしろ、二人でいるときは張コウの言動を面白がっている風さえあった。
「曹丕さまのご遺言に自ら背いたことを、悔いておいでなのですね?」
 押し黙ったまま顔を伏せた司馬懿に、張コウは母が子を慰めるような声で言った。

 昨年、肺炎で死んだ曹丕は、孟達を重用していた。それが裏切りの習性を持つ者を繋ぎ止めるための策であったのか、乱世を生き抜く術に長けていた人間に敬意を払っていたのか、張コウにはわからない。まだ曹操が生きていた頃は、若い曹丕と軍略について話す機会があったが、曹丕が帝位についてからは雲の上の存在となってしまっていた。
 司馬懿は予てから孟達を警戒している節があったが、曹丕が孟達の処断を許さぬと愚痴をこぼしたことがあったのを思い出した。
 関羽や張飛、呂布という英傑は既に伝説となり、武こそが全てであった時代は今や過去となっていた。曹魏のみならず、孫呉や劉蜀も世代が入れ替わっている。世はまさに謀略の時代とも言えた。張コウはいわば武勇の時代の生き残りであり、司馬懿は謀略の中で生き抜いている。
 司馬懿は曹丕の腹心であると誰もが評するが、曹操以上に神経質な曹丕の許で司馬懿がいかに神経を削ってきたか、張コウには痛いほどわかっていた。曹丕に認められねば才を発揮することもできず、曹丕に気に入られて図に乗っていると思われれば足下を掬われる。人間の情と欲の濁流を、したたかにかいくぐらねばならない。解り合えると感じた人間とも、親しくなることすら憚られた。それに比べれば張コウは所詮一介の将であり、戦功を立て軍人の分をわきまえている限り、上からも下からも突かれることはない。ある意味、とても気楽なことであった。

「たかが文字一つ、たかが知己一人。そんなもので人の本質が変わるわけではない。なぜ、純粋に人の才、真実を見ようとしない?」
 司馬懿は、疲れているのだ――。
 そう悟った張コウは、司馬懿の肩に手を乗せる。が、すぐに振り払われた。
「遙か東、海の向こうの国には、言霊というものがあるそうですね」
「倭か」
「そんな名前だったでしょうか、詳しくは知りませんが……言葉には霊力があると、そこでは信じられているという話です」
「……下らぬ。言葉は事物を伝達する記号に過ぎぬ」
「私には、少しわかるような気がいたしますよ」
 張コウは、司馬懿の隣に腰を下ろした。ふわ、と、身に纏う衣が柔らかい音を立てた、ような気がする。髪に焚きしめた香がほのかに漂い、司馬懿の心をわずかに和らげた。
「私が、たとえば郭淮どのに離反の動き有り、と、司馬懿どのにご報告したといたします」
「少なくとも、今はありえぬ。奴は魏に忠実な人間だ」
「ですから、たとえば、ですよ」
 生真面目に返答する司馬懿に、そこがあなたの美点ですね、と張コウは笑みをこぼした。
「でも、いま一瞬、郭淮どのの身辺や経歴について思い返して、吟味をなさったでしょう?」
「当然だ。その言葉が真か偽か、己で考え判断するものだ」
「それこそが、言葉の持つ力というものですよ。私が言わなければ、少なくとも今は郭淮どのの心を疑うことなどなかったはずでしょう?」
「ふむ……」
「明晰な司馬懿どのですから、あらゆる材料を検討して『それはない』とご判断なさいましたが、これが凡人であったなら、いかがでしょう?」
「ありえぬ裏切りを吹聴することで、嘘を真にする。それは連環計の基礎ではある」
 司馬懿は腕組みして、興味深そうな顔をした。
「逆もまた同じことが言えます。兵の士気を左右するのは将の言葉です。私がどんな言葉を彼らに投げかけるかで、戦の行方が変わる――」
「それは、おまえの無駄な装飾語を自己弁護しているのか」
「弁護などと」
 司馬懿はニヤリと皮肉を言い放ち、張コウもふふ、と口元を綻ばせた。
「本当のことですよ」

 にわかに気を取り直した司馬懿が、酒を用意させた。夜も更け、部屋の中には燭台が二本だけ。揺れる炎が、二人を照らしている。文机の上には、張コウが慰みに持ってきた花が飾られていた。
「曹丕さまは、曹操さま以上に詩がお上手であられました」
「それは私への皮肉か」
「そんなに卑屈にならないで」
 司馬懿は詩が得意ではない。実利を尊ぶその性格が、文章にも顕れているのだった。曹操や曹丕も、司馬懿の唯一とも言えるその欠点を、公衆の面前でからかうことがままあった。詩才などに一片の価値も見いださぬ司馬懿には痛くも痒くもなかったが、しばしば詩作を強要されて困り果てている姿を、張コウは哀れとも微笑ましいとも思っていた。常に用意周到、深謀遠慮の司馬懿の人間くささを、皆が好ましいと思っている、と信じたかった。
「曹丕さまは、言葉というものに敏感でいらっしゃった、と言いたいのです」
「それが、どうした」
「言葉に敏感な人間は、他者の言葉にも敏感、いえ、時には過敏ですらあります」
 曹丕が神経質で疑り深い性質だったのも、その詩才故なのだ、と、張コウは言いたいようだった。
「では、私の一挙一動を疑う者は、皆全て私よりも詩才があるということだな。一理ある」
 自分が宮廷一詩才に恵まれないということを自覚している司馬懿は、自嘲とも神妙ともとれる言葉を呟いた。
「しかし、凡才でも言葉の裏を読みすぎて自滅することがあるぞ。これはなんと説明する」
「言葉に鈍感な者は、ときに自分への悪意に敏感になるものです。真意が読み取れない分、本能が鳴らす警鐘に忠実なのでしょうね」
 大抵の場合、それは杞憂なのですが――と、張コウは残念そうな顔をした。
「私の最初の主人も、そういう方でした」

 少年の頃、張コウは袁紹の前に韓馥という男に仕えていた。仕えた、と言っても、軍に志願したときの地方の権力者が韓馥だったというだけで、張コウの意思で主君を選んだわけではない。
 韓馥は、袁紹と冀州の覇権を争った際、些細なことで死んだ。公孫サンというもう一人の豪傑を孕んでの三竦みで、袁紹が巧みな謀略を巡らせて勝ちを奪ったのだった。
 最初は、公孫サンに攻められてビクついている韓馥に連合を誘っただけだった。およそ乱世という時代には不向きであった韓馥は、言われるがままに冀州を袁紹に譲る。しかし袁紹の巧みな策略に嵌められたと悟ると、韓馥は袁紹への警戒を露わにした。
 ある日、冀州を離れて張バクの許で暮らしている韓馥に、袁紹の使いがやってくる。張バクと使者がひそひそ話をしているのを見て、彼は自分が捕らわれると早合点し、厠で自刃したという。

「袁紹さまは、その報せを聞いてほくそ笑んでおりましたよ……」
 韓馥が死んだとき、張コウは既に袁紹の配下になっていた。
「人の汚さや危うさを、初めて実感いたしました。綺麗事で生きていこうなどとは露程も思ってはおりませんでしたが、これが乱世なのだと、肝に銘じた出来事です」
 他人の言葉の上っ面に惑わされたりはしない。その裏ではなく、向こうにある真実や人間の思惑を見定めなくてはならない。そう思った。
「……にしては、意味のない言葉を多用するではないか」
「私はただ、身体や顔だけでなく、言葉も美しく飾るべきだと思っているだけですよ」
 それは腹に一物抱えた駆け引きとは違うのだ、と、張コウは否定した。司馬懿は、「どうかな」と笑ったが、それ以上に責めようとはしなかった。

「孟達は――或いは私の分身であったかもしれません」
 ポツリと、盃を見つめたまま張コウが呟く。
「裏切りの徒、か」
 酒を飲み干して、司馬懿も唸る。
 張コウ自身も、袁紹を見限って曹操に降ったという経緯を持つ。群雄が割拠する当時では特に珍しい出来事でもなく、曹操陣営にそれを責める人間もいなかったが、乱世の色が薄れ三国が中華の統一を争っている今、背信は戦の鍵でもあり、また憎まれる行為という側面が強くなっていた。
 裏切りという暗い言葉を否定して庇ってやりたいという気持ちが強かったが、何を言うべきかつかの間迷った。司馬懿にしては、珍しく酔っている。
「乱世で死に損なった私に、彼は何かを訴えている気さえします」
「奴の敗因は――」
 張コウの盃に酒を注ぎながら、司馬懿が言った。
「己の矜恃がなかったことだ。こうという信条ではなく、ただその場の利に従って動いた」

 呑め、と顎で示す司馬懿に促されて、張コウは盃に唇をつけた。既に何杯も呑んだので、差した紅も落ちて生来の唇の色が顕れている。紅の引かれた唇も艶めかしくて良いが、こうやって繕われた化粧や装いが崩れていくのも、隙があってまたそそる、と司馬懿は思った。
「それに、おまえは人を見る目がある」
 無意識に、張コウの肩に手が伸びていた。
「それは、自讃でございますか」
「まあな」
「自惚れのお強い方ですね。宮廷では、巧みに猫を被っていらっしゃる」
 張コウも特に抵抗せず、司馬懿が自分の髪を弄っているのを眺める。
「おまえだけだ、このようなことを話すのは」
「わかっています」
「裏切りは許さぬ」
「いたしません。司馬懿どのが司馬懿どのでいらっしゃる限り」
 どちらからともなく、唇を重ねた。

 長い接吻の後、息を乱しながら張コウが言った。
「私は、好きですよ。司馬懿どのの詩が」
 まっすぐで言葉の裏を嫌う、本当のあなたが見える気がして。

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