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残念ながら、死にネタです。
司馬蝶者なら、誰もが夢見る……かもしれない。
というわけで、伏せ記事で
いつか、この日が来るのだろうと、覚悟はしていた。―― 一応。
だが、いざとなると、自分でも情けないくらいに心が揺れて治まろうともしない。何かの雑音がひどくうるさくて、目の前の男が何を言っているのかもよく聞き取れはしない。ただわかっているのは――彼が、もういないという冷たい現実だけだった。
「――どの、司馬懿殿」
おそらく既に何度も呼ばれていたであろう、私は、郭淮の焦れったそうな声でようやく我に返った。
「ああ、すまない。それで……なんの話であったか」
「葬儀の件でございます、張コウ殿の」
「葬儀……」
「張コウ殿は降将故に、ご生家が残っておりませぬ。また妻も娶らず、ずっと独り身でおいででしたから――」
「国を上げて行えば良かろう」
忌々しいまでに冷静に喋る郭淮を、容赦なく遮ってやった。葬儀だ、遺族だと不愉快な単語ばかりを並べ立てる此奴の言葉を、最後まで聞いてやる気など毛頭無かった。
何をどうするべきかだと?
……フン、そんなことはわかりきっている。
遺された者ができることは、もう、ただ死んだ者を見送ってやることだけだ。
私が、そんなことすらまともにできぬと、此奴は言うつもりか。
「……少しは、お休みになられたのですか」
郭淮は、心配そうな顔で私の顔を覗き込もうとする。それが本心なのか、上辺だけのものなのか、知りたいとも思わぬ。ただそうされることが煩わしくて、顔を背けた。
「うるさい。貴様の知ったことではない」
「ですが――」
「国葬は盛大に、曹魏の黎明から国を支えた偉大な――華麗な勇将を送るに相応しく執り行う。詳細は追って沙汰する。もう下がれ」
畳み掛けるように吐き捨てて、私は郭淮を部屋から追い出した。
――今暫くは、二人きりでいたかった。
寝台に横たわる張コウの身体に、そっと手を遣る――冷たい。
おかしなものだ、今朝方まではあんなに熱く、荒い呼吸を繰り返していたではないか。何故、今はピクリとも動かないのだろう――。
「張コウ」
なんでございましょう、司馬懿どの。問いかければ、そう返ってきそうなほど、彼の顔はいつも通りだった。いつも通り過ぎて――それが辛い。とても辛い。なんと言っていいのかわからない。何故逝った、と泣き叫べばよいのか。今更ながらに「愛している」と掻き抱いてやればよいのか。
どれもこれも、もう、手遅れだと、冷ややかに聞き分けようとする自分の脳髄がこれほど憎いと思ったのは、生まれて初めてだった。
「コウ」
ただ、名前を呼んだ。返事など期待するほど愚かではない。そうする他に、何も思いつかなかった。
あの時、戦の勝敗は既に決していた。兵糧の尽きた蜀軍は戦い続けることができず、波のように退いて行った。国力の決定的に欠けている連中に、持久戦などどだい無理な話だ。
それに追い打ちをかける兵力を割くのも馬鹿馬鹿しくて、私はただ黙って見ているつもりだった。
血気にはやった馬鹿者共が、やれ追撃だ、自分が出るだとやかましい。そんなことをして何になると言うのだ。くだらぬ。それよりも他に労力を費やすべきことはいくらでもあるだろうに。なぜ此奴らにはそれがわからぬのか。だんまりを決め込んでもなお、連中はしつこく食い下がった。ついに無断で出撃しようとする輩が出始めた時――私は折れた。
だが、退却する諸葛亮の軍を追うならば、猪武者に任せるわけにはいかぬ。ちゃんと、私の美学を……理解している者でなければ。
「どうしても、追うとおっしゃるのですか?」
困った顔をして、張コウは何度も訊ねた。
「私とて、追いたくて追うわけではない」
気怠い、熱く湿った空気の中、私は栗色の柔らかい乱れ髪を弄び、憮然と呟く。
「ただ、このまま見過ごせば大勢のわからぬ馬鹿共がなにをしでかすか。迂闊に出て被害を被るよりは――」
「形だけ追って、皆を納得させればよいのですね?」
皆まで言わずとも、奴は即答する。
「……そうだ」
「わかりました。そのお役目、この張儁乂がしかと果たして参りましょう」
腕の中で、花の微笑みを綻ばせた張コウの肩を強く抱いた。
「深追いはするな。ただ、蜀の殿(しんがり)を遠くから見届けるだけで構わぬ」
「心得ておりますよ」
そうやっていつものように出撃して、張コウは、いつものように「ただいま戻りました」と笑って帰って来た。――はずだった。
諸葛亮の最後の悪足掻き――伏兵に少し手こずったものの、追撃軍にさしたる被害も出はしなかった。ただ、張コウが脚に矢を受けて、部下に支えられて帰ってきた以外は。
命を落とすような怪我ではなかった。
膝に受けた矢傷。それそのものはほんとうに大した傷ではなかった。しばらくは歩くことも叶わぬかもしれなかったが、もっと酷い負傷をしたこともありますよ、と、それを見て慌てる私に彼はこともなげに言った。
ですから、と――。
ご褒美を下さいませ。
そう言って縋り付いてきた彼を抱いてやったのが、仇になったのだろうか。
戦線から戻り、何日かしてから傷が悪化していることに私は気付いた。
「少し、膿んでいるのではないか」
「大丈夫です、すぐに治りますよ」
「手当はきちんとしたのか」
「もちろんですとも」
……そんなはずはない。斜谷で蜀を退けた後も、私達には休む暇などなかったはずだ。休んでおればよいものを、張コウは、本隊の撤退や駐屯部隊の指揮を自ら進んで執っていた。
私の憂いを、「そんなことよりも――」と片づけて、張コウは言った。
「陛下へのご報告は、もうなさったのですか?」
「……いや。明日、御前に」
「私も……ご一緒させていただくわけには参りませんか」
「その脚でか」
「この脚だからこそですよ」
「……何を、する気だ」
「別に、なにも。ただ、此度の追撃は私が強く主張したのだと、上申奉るだけです」
いきり立って私の制止も聞かずに飛び出した故、諸葛亮の返り討ちにあったのだと――。張コウは、子供が悪戯を思いついた時のような目で笑った。
「なぜ」
「あなたに、失敗は似合わない」
「コウ」
「あなたの行く先には、輝かしい未来が待っているのですから。こんな些細な事で、醜い権力の亡者たちに脚を引っ張らせたくはないのです」
「それでは……お前の立場が」
「大丈夫ですよ」
あなたが守って下さるのでしょう?
そう耳元で聞こえたかと思うと、首筋に温かい感触がした。張コウの身体を抱き返して、強く、強く抱きしめて、もちろんだ、と私は答えた。
少し前のことだった。
それからすぐに張コウの容態は悪化し、今朝方、あっけなく呼吸をするのをやめた。
あっけない。本当にあっけなかった。
彼は最期まで笑っていた。時折苦しそうに喘いだが、私が呼ぶと、すぐに「大丈夫ですよ」と微笑んだ。もしかしたら、私が今にも泣きそうな顔で縋り付くものだから、「苦しい」とも言えなかったのかもしれなかった。……そういう男だった。
最期まで、私は彼を縛り付けてしまったのだろうか。
――誰を責めればいい?
追う必要もない羊の群れにとどめを刺せとせがんだ愚か者どもか。
それ許してしまった自分か。
傷の手当てを怠った張コウ自身をか。
――いや。きっと、誰を責めても、仕方のないことだ。
張コウは、もう死んでしまった。私を遺して。
「――コウ、コウ……」
ただ、名前を呼んだ。
「なんでございましょう、司馬懿どの」
柔らかい声と、温かい口付けで司馬懿は目を覚ました。
部屋の中はすでに明るく、もうだいぶ陽が高くなっているであろうことは明白だった。
ぼやけた視界の先に、張コウが微笑んでいるのが見える。
「今日はずいぶんとごゆっくりですね」
そう言いながら、張コウも今まで隣で眠っていたのに違いない。髪は下ろしたまま、着物も夜着のままで、目元はまだ微睡んでとろんとしていた。
「張コウ……」
「あら、もうそんな呼び方」
もう少し寝ぼけていて下さってもよかったのに、と笑うその顔を、強引に引き寄せて口を吸った。
「悪い夢でも、ご覧になったのですか」
長い長い口付けの後に、張コウはひっそりと呟いた。何も答えずに、その胸に縋り付く司馬懿の頭を撫でて、
「困った方ですね……おっしゃっていただかなければわかりません」
「――心の臓の、音がする……」
「当たり前です」
いつか、そんな日が来るのだろうと、覚悟はしている。―― 一応。
fin.
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